魅力の尽きない新しい三峡

中国で“最も美しい渓谷”に選ばれ、「峡谷ギャラリー」と呼ばれた長江三峡は、三峡ダムの完成に伴い、“高き峡に平なる湖”の壮麗な景観を見せ、古い三峡の景色は以前のまま変わらず、更に新しい観光名所が数多く加わり、三峡はいっそう美しくなりました。 今まで隠れていた景観が続々と現われ、三峡観光はこれまで以上に豊富多彩になりました。長江両岸の谷や渓流に川水が流れ込んだため、多くの小島が生まれ、美しい千島湖ができました。三峡ダム自身も三峡の重要な観光ポイントであり、最終的な長さは、2000メートルとなる三峡ダムが長江に跨る「水上の長城」として、国内外の観光客を引き付けるに違いません。また、新しく建てられた移民村も三峡観光の重要な構成部分であります。 三峡は、長江三峡の雄大、奇抜、険阻、秀麗などの特色は失わず、「昔日の姿」をとどめると共に、「新しい三峡」として生まれ変わりました。

瞿塘峡

有名な三峡は瞿塘峡、巫峡、西陵峡からなっています。瞿塘峡は一番短く、8キロしかないですが、その雄々しさで有名であります。瞿塘峡の中では、キ門の景色がもっとも素晴らしいであります。ここは瞿塘峡の代表的な景観であるだけでなく、長江の三峡の中ではとても重要な景観の一つでもあります。昔から「キ門の雄々しさは天下第一」と言われてきました。その両岸の山々は険しく、切り立った山の崖はまるで斧で削ったようで、川の流れが急なため、小さい舟は簡単にここを通過できません。 三峡の水位が上がることによって、キ門の景観もある程度の影響を受けましたが、水位の上昇は数十メートルで、千メートル近い山の峰に比べれば、景観はほとんど以前と変わらず、ただ両側の山々が少し低くなっただけであります。そのかわり、流れが急で濁っていた河川の水は澄み、水面は広く、静かになりました。今までのキ門の景色と比べれば、少し平板になりましたが、人々にゆったりとした美しさを感じさせます。

巫峡

巫峡は、重慶市と湖北省の境にある40km以上の長さの渓谷で、巫山山脈を北西から南東へ貫いて巫山山系の間を東西へ流れます。巫山の十二峰をはじめとする秀麗な景観が多くの文人にインスピレーションを与えてきました。十二峰のなかでも神女峰は最高の見どころで雲の中に突端を突き出しています。山が迫るために川面を太陽が照らすことは少ないであります。
ダム貯水後も巫峡一の観光名所として知られる標高922メートルの神女峰も変わりなくその美しい姿を見せています。水位が上がっても、水はその山麓を潤すに過ぎません。

西陵峡

西陵峡は全長76km、三峡の中で最も長い峡谷であります。昔、峡内は川瀬が多いことで三峡の難所とされましたが、今日の西陵峡は、三峡ダム建設によって水位が上がり、峡谷が浅くなったような印象を受けていますが、峡谷両岸の峰の標高は500メートルほどで、貯水後も峡谷全体の風景は変わっていません。航路の条件も十分に改善され、両岸の景色は依然として素晴らしいものであります。
世界最大級の水利工事-三峡ダムの建設も西陵峡の中堡島で進められているため、完成すれば、第一の見学ポイントとなるでしょう。

三峡、消し切れない文化の蓄積

ナイル川流域でピラミッドが築かれていた頃、チグリス、ユーフラテス川流域ではシュメール人が楔文字の文化を育んでいました。この同時期、アジアでも華夏文明も芽生え、中華文明繁栄の道のスタートを切ります。今日、人類の四大文明を回顧する時、われわれは誇りをもって、華夏文明が独自で5000年の輝かしい道程を歩いてきたことを自覚します。中華民族の揺籃として、黄河は炎黄の子孫から無数の讃美を浴びています。三峡地区の考古学調査の進展にしたがって、長江も黄河とともに中華民族を育んだ偉大な川であることが明らかになってきました。
長江の支流·三峡は、長江文化を繋ぐ絆の一つであります。彼女は聳え立つ1人の巨人のように、片手は蜀文化を育んだ西の成都平原に、片手は楚文化を育成した東の江漢平原に伸ばしています。そして、彼女の胎内でも巴文化が育ち、衝突、融合を繰り返しながら「百河川を包容する」華夏文明を形成したのであります。
歴史上、長江は度々氾濫し、この流域の住民に巨大な災難をもたらしました。この問題を根本的に解決するため、中国政府は三峡の東部に巨大なダムを建設し、巨大な貯水池を建設する「三峡プロジェクト」の実施を決定しました。
三峡プロジェクトは、アメリカのフーバーダムやエジプトのアスワンハイダムの規模をはるかに上回る世界最大の水利プロジェクトであり、人類の歴史における最大の自然改造工事でもあります。人であれ、町そのものであれ、この工事の実施により、その運命を大きく変えざるを得なかったものは数知れません。

長江文明の証人-三峡~燦然たる古代文明

長江は三峡地区に美しい自然景観をもたらすと同時に、燦然たる古代文明を育んできました。三峡には今も数多くの歴史文化遺跡が残されています。
三峡ダム区域には、旧石器時代の遺跡が60数ヶ所ありますが、その内の14ヶ所は全く無傷の状態で残っています。これらの文化遺跡は、黄河と同じく長江も華夏民族を育んだ母親であったことを証明するものであります。
古代の巴(四川省重慶地方を指す)人の住居遺跡に対する発掘調査によって、歴史の轍に埋もれた古代人の存在も明らかにされました。絶えず発掘が続けられている秦·漢時代の遺跡も黄河文化と長江文明とが次第に融合し統一されていったことを物語っています。
「世界最古の水位観測所」と言われる白鶴梁を代表とする中国の古代石刻遺跡は、世界でも稀に見る古代からの水位記録の展示回廊であります。
緑に覆われた長江三峡両岸の山々には、この他にも張飛廟、石宝寨、大昌古鎮を始め、300数ヶ所の古代建築群が点在しており、『三峡プロジェクト水没区および移転区の文物保護に関する計画』に組入れた文物、遺跡、古代建築だけでも1087件に上ります。その中で地上文物は364ヶ所、地下の文物は723ヶ所でありますが、この数字は燦然たる三峡歴史遺産の一部分に過ぎません。

三峡――山紫水明の川、詩の川

中国を見ても、世界を見ても、三峡ほど代々の詩人を魅了し、詩人に讃美されてきた川はないでしょう。
中国唐代の大詩人、杜甫は三峡の奉節で数年間隠居し、詩を437篇残しました。
「朝に辞す 白帝彩雲の間  千里の江陵 一日にして還る…………」 詩聖·李白の『早に白帝城を発す』詩は今でも広く詠われています。
このほか、劉禹錫、白居易、王維、蘇軾、陸游、朱熹、欧陽修など中国文学史上の数多くの詩人、文人も、三峡を訪れて優れた詩を残しました。
こういう興味深い統計があります。中国詩歌の内、三峡を詠う詩は計算して1㎞平均200首にも達しています。三峡は、文学によって天下に知られるようになったのであります。

時間との戦い

三峡プロジェクトの実施が決まると同時に、三峡地区の文物の発掘調査、保護対策も急ピッチで始められました。2003年に水位は135mに、2009年には175mにまで上昇することになります。この限られた時間に、調査を行い、保護対策を講じなければならないのです。関係者たちは、時限爆弾を背負ったような思いでそれぞれの任務に取り組みました。
1997年、重慶市は中国の直轄市に昇格します。直轄市になった重慶市は、直ちに「三峡地区の文物を如何に保護するか」をテーマに全国的規模の会議を開き、重慶の文物保護対策の一環として、最近、予算5億元の「重慶中国三峡博物館」の工事が開始されました。この「重慶中国三峡博物館」には30数万点にのぼる三峡地区の文物が収められる予定であります。また、重慶市は、三峡地区の歴史文化と三峡工事完成以前の自然地理景観を再現することにも着手します。
北京大学、吉林大学、四川考古研究所などの大学や機関から派遣された60を超える経験豊かな考古研究チームでありますが、三峡流域の100ヶ所にのぼる遺跡で発掘調査を行っています。これほどの数の考古学チームが同一地区に集結して調査を行うことは、中国の歴史においても空前のことであり、世界にも類を見ません。
より速くより細心に発掘調査を完了するために、考古関係者たちは数多くの現代的な技術を採用しました。例えば雲陽の故陵、別名「楚墓」を発掘する時には、CTスキャン、地下探査レーダー、高精密磁気探査機、磁場探査機など多種類のハイテク機器と最新の科学的調査方式が使用されています。

未来への遺産
高い歴史的価値を持つ古代文物の発掘が進むと、今度は「如何にそれを完全な状態で保存するか」が中国だけでなく、世界が関心を寄せる問題となりました。
この問題を解決するため、中国政府は巨額の予算と膨大な人員を投入しました。1992年に三峡水利プロジェクトを決定したその日から、政府は三峡地区の古代文物の発掘·保護について具体的スケジュールを組みました。その第一期調査の経費は10億元に達しています。2000年度を例にすれば、行われた調査の発掘面積は12万㎡に達し、経費は1億元に達します。この数字は中国政府が毎年全国重点文物の保護に投入する資金の総額に相当します。

白鶴梁

白鶴梁は重慶市涪陵区城北の長江の中にあり、流れと平行して水中にのびる全長1600メートル、幅10~15メートルの梁状の自然石であります。伝説によると、爾朱という道士が太守の恨みを買い、竹籠に入れられて水中に投げ込まれました。道士はここまで流れてきて、幸いにも漁師に助けられました。二人は親友の契りを結び、やがて道士は白鶴に乗って去っていました。そこから「白鶴梁」と名づけられたといいます。
「白鶴梁」はいつも水の中にあり、毎年12月から翌年3月までの水の少ない時期だけ、水面にその姿を現します。当地の人々は、長江の水面が冬になって一定のラインにまで下がれば、次の年の気候は順調だと考えました。そこで人々は、「白鶴梁」に魚の絵を彫って標識にし、「石に歴史を刻む」やり方で長江の水位を記録しました。
こうした習慣は、唐の時代から始まり、千年以上続いてきました。石の魚が水面に現れるたびに、人々は長江に集まり、文人墨客は「白鶴梁」の上に次々と揮毫しました。これまでに「白鶴梁」上には18尾の石魚が彫られ、1200年間に72回の渇水の年があったことが記載されています。また、計3万余字の文字が彫られ、その中には、黄庭堅、朱熹、王士禎ら著名人による墨跡の石刻もあります。
「白鶴梁」は世界で最初にできた「水文調査所」であり、中国の書道や絵画芸術の「水中の宝庫」ということができます。
しかし、三峡ダムの貯水が135メートルの高さに達した後は、「白鶴梁」は40メートルの水の中に、永遠にその姿を消してしまいました。そこで、「白鶴梁」を保護し、人々が引き続き貴重な石刻を鑑賞できるように、水面下に水中博物館を建設することが決まりました。
1993年から2000年までに、5つの計画案が検討され、最終的に上海交通大学の葛修潤教授の「無圧容器」案に落ち着きました。この計画案によると、まずアーチ型の長さ70メートル、幅約23メートルの大きな保護の覆いを作り、その外側を鉄筋コンクリートで固めます。そして、洗面器を裏返しにするように保護の覆いを水中に沈め、「白鶴梁」の石刻の中でもっとも素晴らしいものをその覆いの内側に囲い込みます。さらに覆いの中に浄化した河川の水を注入し、覆いの内外の圧力を平衡させます。こうして石刻が汚れた河の水に削られるのを防ぎます。観光客はエスカレーターで水面下に降り、覆いの中の透明な回廊から、ちょうど水族館のように石刻を鑑賞することができます。

豊都雪玉洞

三峡ダム建設に伴い水位が変わったために生まれた新たな観光スポットのひとつであります。 「雪玉洞」の面積は大きくないが、全長1166メートルの参観ルートがすでに開発されています。洞内の景観は「白きこと雪の如く、質の純なること玉の如し」と言われ、「雪玉洞」と名づけられました。
専門家の分析によると、「雪玉洞」は世界の鍾乳洞の中で希少な「妙齢の少女」だといいます。一般に鍾乳洞の鍾乳石は、数万年前あるいは数十万年前から形成されます。そのため鍾乳石の質は老化し、色彩や光沢は暗いことが多いであります。しかし「雪玉洞」はだいたい3300年前あるいは1万年前から形成され、あたかも娘盛りのように急速に成長する時期にあります。鍾乳洞内の堆積物は純白であるばかりでなく、生長速度が百年で33ミリに達します。これは普通の鍾乳洞の33倍であります。
また、「雪玉洞」は珍しい「白い大理石の彫塑博物館」でもあります。洞内の景観は、さまざまな種類がそろっていて、規模が大きく、形が美しいであります。その中には、現存する世界最長の、2.5メートルの「鵞管石」(円管状の鍾乳石)や、きらきらして透き通るような石筍や石柱、紙のように薄く透き通った石のベルト、風を受けてはためく石の旗、大きな迫力の石のカーテン、天から流れ落ちる石の瀑布、巨大な石の盾や塔状の洞窟珊瑚などがあります。
これまでは一部の鍾乳洞では、熱を発する照明を採用していましたが、これは鍾乳石に損害を与え、多くの鍾乳石が照明によって黒くなり、もろくなるばかりでなく、生態環境にも変化が起きました。これを教訓に「雪玉洞」では、コストはかかるが熱を発しない照明を使用し、貴重な景観には保護の覆いをかぶせました。これによって、「雪玉洞」の鍾乳石の質の良さを強調しています。

石宝寨

長江北岸忠県の玉印山にあり、高さ30m以上の巨岩が断崖から突き出し、女媧(人間を作り出す女神)が天を支えるために創り出した五色石だと言い伝えられました。昔は「石宝」と呼ばれていましたが、玉の形をしているため、別名「玉印山」ともいいます。「石宝寨」の名は明代末、譚宏がここを砦(寨)とする提案をしたことに由来します。
玉印山は大地が隆起して出来た独峰であります。清乾隆元年にケーブルを用いて山頂の寺院「蘭若殿」の修築が行われ、嘉慶時代には熟練工によって楼閣の修繕が行われました。山に聳える石宝寨の楼閣は、飛檐垂木が反り、上にいくにつれ面積が小さくなります。各階が湾曲した梯子で繋がっているという不思議な構造の12階建て、高さ56mの木造建築で、砦門、砦と合わせて石宝寨を構成しています。蘭若殿は明万歴に建立され、康熙、乾隆の時代に修繕されました。最初は、「九重天」の意味で9階建てでありましたが、1956年に上の3階部分が増築されました。砦内には、「巴曼子、自ら首を刎ねて城を守る」、「張飛、厳顔を釈放する」、「女傑·秦良玉の物語」の3組の彫像群が安置されています。
精巧華麗なこの要塞は、本来参拝客の焼香のために築かれたものでありましたが、今日では手摺にもたれ長江を遠望するのにちょうどよい「小蓬莱」となっています。三峡ダムの建設によって、水位が上昇したため、石宝寨も水上に浮かぶ「江中の神殿」となっています。

白帝城

朝に辞す 白帝 彩雲の間
千里の江陵 一日にして還る
両岸の猿声 啼いて住まざるに
軽舟 已に過ぐ 万重の山

詩仙李白の「早に白帝城を発す」という詩は、白帝城を天下に知らしめました。危篤に陥った劉備がわが子を諸葛孔明に托した物語は、さらに白帝城に物語の彩りを加えました。
ダムが建つまでの白帝城は、三方を水に囲まれた半島で、高く聳えるキ門を背にして、滔々たる長江に面していました。雄々しい雰囲気の中で白帝城は、独特な、繊細で穏やかな美しさにあふれていました。
水が蓄えられたため、長江の水は山の中腹まで上がり、半島は長江の中の孤島になりました。しかし山頂にある白帝廟は影響を受けず、托孤堂は依然残っています。人々の心の中では、白帝城は単なるすばらしい風景であるだけではなく、一種の象徴、詩の境地の象徴でもあります。今日の白帝城は、両岸の猿声は昔のままでありますが、半島が孤島に変わったことで、どちらが優れ、どちらが劣るのか、人によって見方はそれぞれ異なることでしょう。

小三峡

瞿塘峡を抜けると、距離にして25kmほどの大寧河峡谷に入ります。大寧河は大巴山区に水源を発し、三峡地区一の大支流であり、風光明媚な峡谷風景から、“小三峡”と呼ばれています。
貯水後の小三峡は、全体的には景観の変化がほとんどありません。水位は40mほど上昇したため、川の流れが緩やかになり、位置の低いポイントが一部沈んでしまいましたが、小三峡の主な特徴である雄大さ、秀麗さなどはまだ完全に残っています。特に以前は行けなかった場所の滴水峡へも行けるようになり、以前は遠くて見えにくい懸棺もはっきり見えるようになりました。また、遊覧船でゆっくり景色を観賞できるため、昔より小三峡を楽に観賞できるようになりました。

小小三峡

大寧河滴翠峡の支流、馬渡河畔に位置します。全長5km。景観は美しいでありますが、川幅は狭く、険しい山並みであります。山上の岩から鐘乳石が吊り下がり、仙境に入り込んだかのような風情があります。小小三峡は早瀬が多く、モーター付きの舟では進むことができないため、観光客は小型の手漕ぎボートに乗り換えて、小小三峡を遊覧することになります。

神農渓

巴東県内にある神農渓は、北は神農架から南へと深い峡谷の間を蛇行し、西壌口で長江に合流します。龍昌峡、鸚鵡峡、棉竹峡三つの峡谷からなり、原始的な舟「湾豆」、昔ながらの村落、トウチャ族の風情、質朴な自然などが神農渓下りの魅力であります。
貯水後、水位が60メートルほど上がり、「神農渓下り」は、上流のほうに変更されました。もともと、·豌豆船·と呼ばれる小船だけが通れる神農渓は現在、中型観光船も十数キロ先奥の·羅坪·まで運航できるようになりました。·綿竹·と呼ばれる特有の植物に覆われた山々は、大自然を実感させてくれ、·中国一の川下り·は相変わらず観光客を魅了しています。

新しい街に生きるシ帰

シ帰県は、湖北省南西部の宜昌市内に位置し、長江三峡とよばれる三つの峡谷(西陵峡、巫峡、瞿塘峡)にはさまれています。戦国時代(前475~前221年)に有名な大詩人·屈原が生まれたところでもあります(現·シ帰県内)。史書の記載によると、漢代(前206~220年)に初めてシ帰県が置かれ、続く三国時代の蜀漢·章武元年(221年)には、蜀王となった劉備がシ帰県城を築いたことから、ここが別名「劉備城」とも呼ばれました。唐の武徳2年(619年)になると、シ帰県は帰州と改称され、「帰州城」と呼びならわされました。
史上のシ帰県は、これまでに6回の移転を余儀なくされました。70年代の長江葛洲ハダムプロジェクトでは、旧県城の部分的な移転と、河辺にあった屈原の祠の移築が行われました。今回の三峡ダムプロジェクトのための移住計画は、シ帰県では最も徹底した最大規模の計画となりました。三峡ダムと新県城の建設は、シ帰県の人々の生活様式や考え方に大きな影響を及ぼしました。そこにはさらに多くの発展チャンスがあり、彼らは現代化への大きな未来を思い描くことができます。
旧県城の「屈原祠」と「牌坊」は新県城に移築されましたが、人々はそれを、こうユーモラスに、親しみを込めて語っていました。
「屈原先生も移住者の一人なんですよ!」

「野人」が現れた神農架

湖北省にある神農架は、古代神の神農氏が百草を嘗めたところと伝えられ、中国のみならず世界の中緯度地区で唯一、亜熱帯の森林生態系が完全に保存されているところであります。ここは動植物の資源が豊富で、夏は涼しく冬は湿潤であります。「山こそが盛夏になれば山頂は春、山麓が美しい秋になれば山頂は凍ります。赤橙黄緑、いくら見ても飽きず、春夏秋冬は分かちがたし」――これは神農架の気候をうまく描写しています。
神農架の名を高めているのは、珍しい原始林のほかに、伝説的な「野人」の存在の可能性であります。「野人」は全身を深い毛に覆われ、直立して歩く霊長類で、清代に著された『房県志』には「房山(今日の神農架)には毛人多く、その長は丈(約3メートル)に余る」と記されています。
しかし、「野人」の存在は、科学的に確認されたわけではありません。中国科学院はこれまでに2回、神農架の「野人」に対する大規模な調査を行いましたが、「野人」を捕捉したり、目撃したりすることはできませんでした。ですが「神農架には確かに、一種の大型で直立歩行することのできる高等な霊長類の動物が存在している」とし、「大規模の、長期的な、更なる調査を引き続き行う必要がある」との結論を下しました。

香渓

香渓河が長江に注ぐ場所は香渓と呼ばれています。この上流45kmの所に、昭君村があり、中国四大美人のひとり王昭君の故郷であります。王昭君は前漢の時代、匈奴と宥和政策を進める漢の犠牲となって呼韓邪単于に嫁いだ悲劇のヒロインとしても有名であります。王昭君は少女の頃から絶世の美人で、ある日香渓で水遊びをしていて、誤って真珠を一つ川に取り落としました。それから川の水が澄み、よい香がするようになったので、この川を香渓と呼ぶようになりました。 三峡ダムの建設によって水位が上がり、王昭君の像も故居も永遠に水没してしまいましたが、三峡下りの船から、遥かに清く、広くなった香渓河が望まれ、旅人に美しい宮女の悲話が思い起こされるでしょう。

三峡ダム

三峡ダムは、洪水防止、電力供給、水運改善を主要目的で建設された、「万里の長城」建設以来の人類の最大工事といわれています。ダム建設は1993年に着工、2009年に完成予定、17年間に及ぶ史上空前の土木工事であります。 ダムの総発電量は1820万キロワット、年間発電量847億キロワット/時(中国の総発電量の約10%を占める)で世界一の規模であります。
ダム建設前のこの付近の長江は、流れが速く水深が浅く幅も狭いため、運航上の難所が多かったですが、ダム完成によって水位が上がり、今までの難所がなくなり、運航能力が1,000万トンから5,000万トンに増え、輸送コストが40%近く節約できるようになると言われています。

豊都鬼城

豊都鬼城は四川東部の長江北岸にあり、重慶から長江三峡下りの第1観光地であります。ここに言い伝えられているのは人が死になった後に魂の落ち着き先の地方であります。前漢の王方平と後漢の陰長生の二人が修業して仙人になったという伝説があります。 後世の人々の間違いで、二人の姓から、“陰王(閻魔大王のこと)”がいると伝わってしまい、いつしか豊都は鬼城と呼ばれるようになりました。
鬼城豊都は名山の上、古木は空高くそびえて、寺院は林立して、巨大な世の中で仙道は儒学を放して、諸神の大衆の幽霊は各廟を占拠して、等級は厳重で、それぞれ職責を尽くしてそしてひどい刑の峻法で伝説の中の幽霊の世界を統治しています。歴史の資料の中、豊都鬼城はもう2200年以上があり、1982年豊都県政府は豊都名山に対して改築して、歴史の上の豊都鬼城が更に雄壮で雄壮偉大になりました。
豊都鬼城は人々が任せてその世を想像して建築したので、鬼城の寺とか縁日とか、規模と光景はすべて長江流域がめったにありません。鬼城の景色は美しくて、渓流がちょろちょろと流れて、派手な山色、鳥のさえずりの泉鳴、うっとりさせられます。人々は想像に任せて、陰陽橋、閻魔殿、地獄関、陰陽界、地獄のどん底などを作り上げました。各門所の鬼神のイメージはまた多彩だ、高く険しくて風変わりで、刑具は恐怖で、ぞっとして、これは豊都鬼城であの世のあの世が現れて、1つの鬼世界はここから形成しました。人々の上りは名山の中腹へ、古式楼閣、これは有名な地獄の入り口で、天子殿は山頂にあり、それは山上の最大のお寺であります。双桂山には街もあり、縁日の時、とても賑やかで、民間の貿易形式で、鬼城奇容と称されました。

長江第四峡の誕生

長江がダムで堰き止められたあと、船舶はどのように通り抜けるのでしょうか。
工事請負業者は、上流から見てダム左側の花崗岩の山を切り開き、長さ7キロ、幅56メートル、高さ170メートル程度の人工峡谷を作り出し、年運行能力5000万トンの二航路ある五段階式の航行用水門を建設しました。この巨大工事は、「長江の第四峡」建設と称されています。
中国人が独自に設計·建築した水門の人字型の門は、名実ともに「天下一の門」であります。門の片側は、幅20·2メートル、高さ38·5メートル、厚さ3メートルで、面積はバスケットボール·コート二面に相当し、重さは850トン以上あります。両側の水門を閉じると、髪の毛一本を差し込む隙間もありません。
「大型船は階段をのぼり、小型船はエレベーターを使う」と、船舶が三峡ダムを通過する二つの方法を採られました。水門の上流と下流の水位落差は113メートルあり、五段階の水門で水位落差を管理することに成功しました。
「階段」とは、すでに運用をはじめた五段階式の航行用水門のことです。船が水門に入ると、まず、水門の扉が閉まり、次の階の水門の水位と同様の高さまで水が注入されます。そこで門を開け、次の階に移動します。これを何度も繰り返すことで、1万トン級の船が、階段を上がるようにダムを通り抜けることができます。
一方「エレベーター」とは、船の垂直昇降機のことです。これは、客船を迅速に通過させるための機械で、一回の操作で3000トン級の貨客船一隻または1500トン級の艀一隻を通過させることが可能です。113メートル上昇させることができます。

峡谷の静かな湖と黄金の航路

今日、毛沢東主席がかつて想像した「高き山峡の平なる湖」が、ついに出現しました。昔、狭く、流れが急だった長江は、いまでは女性的な美しさを漂わせるようになりました。
そのため、中には、かつての三峡の美景が消えてしまうことを心配する人もいます。しかし、貯水後、川幅が広がり、広い水面が出来るのは一部の谷に限られ、切り立った岸壁のある峡谷では、水位が175メートルに達しても、川幅に大きな変化はなく、船で航行する際の景観の見栄えへの影響は大きくはありません。それより、水位が上がることで、峡谷の渓流がより多く、より深く、より幅広い範囲に広がり、数多くの想像を超えた新しい景観が生まれました。
貯水後のさらに重要な変化は、航路条件の根本的な転換で、流れが緩やかになり、川が深く、広くなることであります。これにより、航行の際の燃費がよくなり、積載量が増加し、航路片道の年運行能力は、いまの1千万トンから5000万トンに増加します。また、これまで航行できなかった1万トン級の船ですが、重慶港に直接接岸できるようになります。
推計によれば、貯水後、水上運輸のコストは36%程度削減でき、輸送力も大幅にアップします。これにより、長江の水上運輸事業は、絶対的な価格優位を手に入れることができます。

 

長江は、中国の沿海部(東部)と内陸部(西部)をつなぐ経済の大動脈であります。内陸部の資源や製品が、より速く、より安価に沿海部に輸送できるようになることで、沿海部の企業が、これまで以上の低コストで内陸部に進出できれば、三峡という天然の要害は、「西部大開発」の新しい動脈になります。